(この記事は2024年10月8日に更新しました。)
- マリーアントワネットは悪女だった?
- 名言は創作って本当?
- マリーアントワネットの真実を教えて
と悩んだことはありませんか?
そのような悩みは、この記事で「全て」解決していきます。
この記事では、歴史上の悲劇の王妃マリーアントワネットについて紹介します。
などがわかるので、ぜひ最後までご覧ください。
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マリーアントワネットとは?
マリーアントワネットとは、18世紀のフランス王妃です。
生まれはオーストリアで、神聖ローマ皇帝フランツ1世の11女でした。
王家の中でもかなりの浪費家で、庶民の反感を買い、最期には処刑されてしまいます。
処刑の正式な理由は革命を反対し、他国にフランスの革命軍を攻めるように要請したからだと言われています。
マリーアントワネットは亡命時の脱出用の馬車を豪華にしすぎて捕まったにゃ
夫はルイ16世
マリーアントワネットの夫はフランス国王ルイ16世です。
マリーアントワネットとルイ16世は政略結婚であったにも関わらず、非常に仲が良かったと言われています。
ルイ16世もフランス革命で捕まり、マリーアントワネットの9ヶ月前に処刑されました。
ルイ16世が処刑されたギロチンは、自身が開発した斜めの刃を採用したものでした。
自分が開発したギロチンで自分が処刑されることになってしまうにゃ
容姿
マリーアントワネットは身長154cmで、当時のフランス人女性と比べても少し小柄でした。
体型はかなり細く、当時はウエストが細い女性が美しいとされていたため、極限までコルセットで締め付けていたそうです。
マリーアントワネットのウエストは48cmほどで、直径は10cmくらいだったと言われています。
ウエストを細く見せる為に肋骨を2本折ったという話もあるにゃ
ファッションリーダーだった
マリーアントワネットの髪型は頭の上に高く結んだかなりの盛り髪でした。
その盛り髪は次第にエスカレートしていき、頭の上に船の模型を載せることもありました。
マリーアントワネットの髪型は斬新で、当時の貴族に大流行したと言われています。
服装は基本的にドレスでした。
特にくすんだ色のドレスを好んでいたと言われています。
また、マリーアントワネットは香水が大好きで、専属の調香師を何人も雇っていました。
マリーアントワネットのファッションはカリスマ的だったにゃ
マリーアントワネットの最後
マリーアントワネットの最後は大衆の前でのギロチンによる処刑でした。
マリーアントワネットの処刑日は1793年10月16日で、パリの街を1時間以上見せ物のように引き回された後に処刑されました。
マリーアントワネットの死因は首切断による失血死だと言われています。
マリーアントワネットの処刑人は、シャルル=アンリ・サンソンという死刑執行人のベテランが行いました。
マリーアントワネットは処刑台に上った時にサンソンの足を踏んでしまい、次のように言いました。
お許しくださいね。ムッシュ。わざとではありませんのよ
これがマリーアントワネットの最後の言葉となりました。
マリーアントワネットは処刑される時までバラを握っていたという話もあります。
サンソンは王党派でルイ16世やマリーアントワネットを支持していて、自分で2人とも処刑したことを生涯後悔したにゃ
マリーアントワネットのエピソード
ここでは、マリーアントワネットにまつわるエピソードを2つ紹介します。
一夜で白髪になった
マリーアントワネットは処刑されると知ったショックで一夜で白髪になったというエピソードがあります。
マリーアントワネットの処刑時の年齢は37歳で、召使いのロザリーによると捕らえられる前は白髪はほとんどなかったそうです。
一夜で白髪になるほど処刑に対する恐怖やストレスを感じていたのでしょう。
元々はブロンドヘアーにゃ
犬好きだった
マリーアントワネットは犬好きであり、パピヨンを飼っていました。
パピヨンは16世紀のフランス貴族に愛された存在であり、ルイ14世は何種類ものパピヨンを飼っていました。
マリーアントワネットは自身が処刑される当日、処刑台にまで愛犬のパピヨンを連れて行くほど寵愛していました。
マリーアントワネットは処刑されてしまいますが、愛犬のパピヨンは処刑されずに他の誰かが育てたと言われています。
犬に罪はないにゃ
マリーアントワネットの性格
マリーアントワネットの性格は次の通りです。
マリーアントワネットの生活はイメージ通りかなりの贅沢でした。
しかも、ベルサイユ宮殿の中に農村を作っておままごとをしたりと、浪費は自分自身の満足のために行われることが多く、それが人々の反感を買う原因になってしまいました。
これを聞くと、マリーアントワネットは自分のことしか考えていないと思うかもしれませんが、実はそうではありません。
浪費は庶民に対して向けられることもありました。
貧しい庶民に家を建ててあげたり、食料を分け与えることなどを行っています。
さらに、マリーアントワネットが馬車で移動している時に人とぶつかって怪我をさせてしまった時は、その人に医療費を全額支払ったのはもちろん、仕事に復帰するまでその人の家族の面倒も見ました。
マリーアントワネットは自分にも他人にも優しい性格だったと言えます。
舞踏会の日以外は意外にも質素な食事をしていたにゃ
マリーアントワネットの首飾り事件
1785年、ラ・モット伯爵夫人が宝石商から160万リーブル(約130億円)の首飾りをマリーアントワネットに渡すと言って騙し取った事件が起きました。
ラ・モット伯爵夫人は代金はマリーアントワネット側が払うと言って首飾りだけを受け取り、宝石をバラバラにしてロンドンで売りさばきました。
いくら待っても料金が払われなかったので、宝石商はマリーアントワネットに直接請求に行きました。
しかし、マリーは次のように返答しました。
首飾りを買うなんて言っていない
自分の名前を出して宝石を盗んだ事件に激怒したマリーアントワネットはすぐにラ・モット伯爵夫人を裁判にかけ、有罪にさせました。
ラ・モット伯爵夫人は両肩に「V」(Voleuseで泥棒の意味)の文字を烙印され投獄されました。
ラ・モット伯爵夫人は終身刑だったけど脱獄してイギリスに逃げたにゃ
首飾り事件後マリーアントワネットの評判は悪くなった
首飾り事件はマリーアントワネットに非は全くなかったにも関わらず、庶民からはマリーアントワネットを嫌う世論が強まりました。
事件の内容などはどうでもよくて、マリーアントワネットへの日頃のうっぷん晴らしのネタとなってしまったのです。
マリーアントワネットは結果的に陥れられたにゃ
マリーアントワネットの名言は創作
マリーアントワネットの名言に次のような言葉があります。
パンがなければお菓子(ケーキ)を食べればいいじゃない
じつは、この言葉はマリーアントワネット本人は言っていないのです。
この言葉はルソーの「告白」という自伝が起源であり、それが書かれたのは1765年です。
1765年だとマリーアントワネットは9歳であり、フランスに嫁いでいなく、この言葉を発せるはずがなかったのです。
当然、ルソーとマリーアントワネットの面識はありませんでした。
マリーアントワネットは浪費家だったので、そのイメージがこの名言と結び付けられ語り継がれているのです。
マリーアントワネットはいろいろな意味で悲劇の王妃にゃ
マリーアントワネットの真実
最後にマリーアントワネットについての真実を紹介します。
子孫がいる
マリーアントワネットには4人の子孫がいました。
ルイ・ジョセフとマリー・ソフィーはフランス革命が起きる前に病気で亡くなっています。
ルイ・シャルル(ルイ17世)はフランス革命時に牢獄に入れられました。
その牢獄は8畳ほどの狭さで、トイレがなく光も入らないところでした。
1日1回パンとスープが与えられるだけで、完全に放置状態でした。
投獄されてから2年後、ルイ・シャルルは亡くなってしまいます。
ルイ・シャルルと同時に投獄されていたマリー・テレーズはフランス人捕虜との引き換えを条件にオーストリアに亡命し、73歳まで生きました。
4人ともこどもを生んでいないから、マリーアントワネットの子孫は残っていないにゃ
マリーアントワネットの靴が残っている
マリーアントワネットが愛用していたヤギ皮製のシルク靴が残っています。
200年以上前の靴ですが、劣化はそこまでひどくなく良好な状態でした。
ちなみに、靴からマリーアントワネットの足のサイズは22.5cmということも判明しています。
靴の踵の部分に王妃の名前が入っているにゃ
マリーアントワネットの生まれ変わりがいる
マリーアントワネットの生まれ変わりや転生した人が存在する噂があります。
日本人の中でも「私はマリーアントワネットの生まれ変わりです」と言っている人がそれなりの数いるので、世界だとかなり多く存在するはずです。
本当に生まれ変わりかどうかは置いといて、マリーアントワネットはそれほど魅力的な女性だということがわかります。
本当にマリーアントワネットだったかどうかは証明しようがないにゃ
マリーアントワネットの手紙の内容
マリーアントワネットは投獄されている間にフェルゼンという男性と手紙でやり取りしていました。
しかし、この手紙は厳しい検閲がなされていて部分的に黒く塗りつぶされていたのです。
近年、X線蛍光分光法(XRF)を使って塗りつぶされていた部分が解明しました。
そこには次のような表現が書かれていました。
このような表現からマリーアントワネットはフェルゼンに深い愛情を抱いていた可能性が高いです。
二人は恋人同士だったという噂もあるにゃ
ブレゲの時計が好きだった
マリーアントワネットはブレゲという高級ブランドの時計が好きでした。
ブレゲは当時から存在するブランドで、マリーアントワネットの時代には創設者のルイ・ブレゲが実在しました。
ルイ・ブレゲは天才的な時計技師で、現在の時計の4分の3はブレゲが開発したと言われるほどです。
マリーアントワネットはブレゲに「ブレゲNO.160」という時計を発注しました。
しかし、マリーアントワネットは時計を受け取る前に処刑され、ブレゲNO.160を手にすることはできませんでした。
さらに、ルイ・ブレゲもフランスから脱出していたので、ブレゲNO.160の制作は中断せざるを得ませんでした。
ブレゲNO.160はルイ・ブレゲが亡くなって4年後に弟子達によって完成されましたが、引き取る人が現れなかったので、ブレゲ家のコレクションとして保管されました。
他にもナポレオンなどがブレゲ愛好家だったにゃ
モーツァルトに告白された
マリーアントワネットは7歳の頃、音楽家のモーツァルト(6歳)にシェーンブルン宮殿で告白されています。
モーツァルトが宮殿で滑って転んだ時にマリーアントワネットが近寄ってきて手を差し出しました。
その時に、モーツァルトは
僕と結婚して欲しい
と告白しました。
しかし、2人の恋が実ることはなく、モーツァルトの告白から半年後にマリーアントワネットはルイ16世との結婚が決まります。
マリーアントワネットとモーツァルトに接点があったことに驚きにゃ
デスマスクが存在する
マリーアントワネットはギロチンで斬首刑されたのですが、その時のデスマスクが存在します。
マリーアントワネットのデスマスクを作成したのはマダム・タッソーという蝋人形職人でした。
マダム・タッソーはフランス革命で捕らえられましたが、蝋細工の技術の高さから処刑を免れました。
そして、ギロチンの犠牲者のデスマスクを作る仕事をさせられました。
その中にマリーアントワネットがいたのです。
日本にもお台場にマダム・タッソー東京という蝋人形館があるにゃ
マリーアントワネットは病気だった
マリーアントワネットは投獄されてから酷い下血に悩まされてました。
なにかしらの病気を患っていた可能性が高かったのです。
しかし、投獄後は人として扱われていなかったので、そのまま放置されました。
地下牢の寒さとストレスで病気になってしまったかもにゃ
マリーアントワネットのアニメがある
マリーアントワネットを題材にしたアニメは次の3つです。
中でもベルサイユのばらは有名で、実際に観たことある人も多いのではないでしょうか?
ベルサイユのばらは、たまにテレビで再放送しているにゃ
マリーアントワネットの映画が存在する
マリーアントワネットは2006年に映画として公開されています。
映画のマリーアントワネットは歴史通りのストーリーで、歴史を知っている人も知らない人も楽しめる作品です。
映画の製作費に4000万ドル(約44億円)使われており、映像とサウンドにかなりこだわっています。
実際にベルサイユ宮殿で撮影しているにゃ
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マリーアントワネットはフランス革命に巻き込まれた悲劇の王妃
- マリーアントワネットはフランス革命に巻き込まれ処刑された
- 馬車を目立たなくしていれば亡命できた可能性が高い
- マリーアントワネットは自分にも他人にも優しかった