【都市伝説】大阪夏の陣で真田幸村は徳川家康を討ち取っていた!?

大阪夏の陣で徳川家康は討ち取られていた説

(この記事は2024年4月26日に更新しました。)

徳川家康といえば、江戸幕府の初代将軍として有名ですよね。

徳川家が大阪夏の陣で豊臣家を滅ぼしたことで江戸幕府が完成しました。

その後、江戸時代は260年間続くこととなります。

しかし、これは本当は徳川家によって作られた歴史であり、「本当は徳川家康は大阪夏の陣で豊臣方によって討ち取られていた。」という都市伝説が存在します。

この記事では、徳川家康は大阪の陣で討ち取られていた説について深掘りしていきます。

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目次

大阪の陣とは?

大阪城

1600年(慶長5年)の「関ケ原の戦い」で石田三成率いる西軍を徳川家康率いる東軍が倒しました。

この戦いによって、豊臣家の太閤直轄地の大半を勝利した東軍に分け与え、豊臣家の所領は220万石から摂津・河内・和泉の約65万石に削減されました。

今まで実権を握っていた豊臣家の力は弱くなり、代わりに徳川家の力は強くなりました。

さらに、徳川家康は1603年(慶長8年)に征夷大将軍となりました。

このことにより、徳川家の権力はさらに強大となり、徳川家と豊臣家の権力は逆転しました。

豊臣秀吉には子の豊臣秀頼がいました。

しかし、秀頼はまだ若く、実権は秀頼の母・淀君やその側近が持っていました。

かつて天下を治めていた豊臣家が今は65万石の所領しかなく、豊臣家に従えていた徳川家の方が実権を握っていることが気に入らなかった淀君とその側近たちは、次第に徳川家と対立を深めていきます。

浅野長政、加藤清正、池田輝政など秀吉時代の側近たちが亡くなり、豊臣家には「反徳川」の強硬派がより強くなり、豊臣家と徳川家の仲はさらに険悪なものとなっていきました。

そして、ついに1614年(慶長19年)11月19日、木津川口の砦での衝突をきっかけに豊臣軍と徳川軍が衝突し、戦いが始まりました。

これが大阪冬の陣です。

大阪冬の陣で真田幸村などが奮闘し、真田丸(真田幸村が造った出城)で徳川軍に圧勝したことにより、冬の陣では決着がつきませんでした。

翌年、1615年(慶長20年)4月にもう一度、豊臣家と徳川家は戦い、徳川家が勝利。

豊臣家は滅亡し、徳川家康による江戸時代となります。

この二回の天下をかけた大戦のことを大坂の陣といいます。

大阪夏の陣によって徳川軍は勝利したはずですが「実は徳川家康は討ち取られて敗北していたのではないか?」という資料が近年見つかっており、ここからはそのことについて深堀りしていきます。

大阪に徳川家康の墓がある謎

大阪の徳川家康の墓

徳川家康の墓といえば「久能山東照宮」と「日光東照宮」が一般的に伝えられています。

また、当時は土葬であり分骨はできなかったため、墓はどこか一つのはずです。

しかし、大阪の堺、南宗寺に徳川家康の墓があるというのです。

徳川家康は大阪夏の陣ですでに死んでいた!?

真田幸村の家紋

前述したように、家康の墓は大阪府堺市の南宗寺にあるという話があります。

なぜ、大阪に家康の墓があるのか?

ここから本題に入りたいと思います。

家康は大阪夏の陣で真田幸村に攻め込まれ、死を覚悟したという話があります。

豊臣方の敗北は決定的であったが幸村は家康の首だけを狙い、激しい銃撃戦の中、幸村は徳川軍を突き崩して徳川本陣に突撃しました。

「薩藩旧記雑録」という資料によると、『幸村は家康の本陣に3度攻めかかり、御陣衆を蹴散らかし討ち取った。御陣衆の中には3里も逃げ惑った者がいた。』と書いてあります。

このときに実は家康は討ち取られていたのかも知れません。

そうなると、大阪に家康の墓があることのつじつまが合います。

大阪に家康の墓がある根拠はもう一つあります。

1623年(元和9年)7月10日に徳川秀忠が南宗寺に参拝し、その直後に将軍職を家光に譲っています。

そして、将軍に就任したばかりの家光も同年8月18日に南宗寺に詣でています。

江戸幕府は関東にありました。

わざわざ大阪まで詣でに行ったのはそこに本当の家康の墓があったからだとも考えられます。

後藤又兵衛が徳川家康を殺した!?

大阪夏の陣で活躍した後藤又兵衛
後藤又兵衛

真田幸村が徳川本陣に突撃し、家康の首を討ち取ったという説の他に、後藤又兵衛が討ち取ったとする説があります。

後藤又兵衛とは、豊臣秀吉の側近で軍師の黒田官兵衛に仕えていた猛将です。

大阪夏の陣で後藤又兵衛は2800の兵で、徳川軍20000の兵と戦ったと言われています。

南宗寺史という資料によると「家康は、大阪夏の陣で茶臼山の激戦で敗れ籠で逃げる途中に、籠の外から後藤又兵衛の槍に突かれた。堺まで落ち延びたが、籠を開けるとすでに死んでおり・・・」とあります。

この資料が真実だとすると「徳川家康は大阪夏の陣で後藤又兵衛に討ち取られていた」ということが真実となります。

もし、これが真実だとしても徳川方はこれを隠さなければいけませんでした。

その理由について深堀りしていきます。

徳川家康の死はなぜ隠さなければいけなかったのか?

大阪夏の陣の総大将は徳川家康です。

その家康が討ち取られたことが広まれば、間違いなく徳川方は大混乱となり戦線を離脱するものや、豊臣方に寝返る者が続出していたと考えられます。

桶狭間の戦いで今川義元が討ち取られたように、たとえ大軍であっても総大将が討ち取られたら軍は壊滅となります。

そうなることを恐れた徳川軍が家康の死を隠したとも考えることができるのではないでしょうか?

歴史上では、家康は大阪夏の陣の1年後に亡くなったこととなっています。

大阪夏の陣のあと1年で亡くなったというのも、少し怪しくはないでしょうか?

家康の側近であった、大久保彦左衛門が、古河城主・小笠原秀政を影武者に仕立て上げたという話があります。

幕府の体制が整う1年の間、小笠原秀政が影武者として家康となり、1年後に家康が亡くなったという話にすると話がつながります。

徳川家康が討ち取られた資料が無い理由

徳川家康が討ち取られた(戦死していた)という記録は、表の資料や歴史では全く残っていません。

ここではあえて、表の資料という言葉を使わせていただきます。

なので、もし本当に徳川家康が討ち取られていたとしても、誰が討ち取ったのか今もわからないということになります。

資料がないのには以下の3つの説があります。

資料がない理由
  • 家康をうち取られた瞬間を見た人がいない
  • 討ち取った武将も討ち取られて記録を残せなかった
  • 徳川政権に都合の悪い事実を抹消した

前述の通り、南宗寺史によると「家康は、大阪夏の陣で茶臼山の激戦で敗れ籠で逃げる途中に、籠の外から後藤又兵衛の槍に突かれた。堺まで落ち延びたが、籠を開けるとすでに死んでおり・・・」とあります。

この資料から考えると「家康が討ち取られた瞬間を見ていた人がいない」の説は正しいかもしれません。

しかし、他の資料によると後藤又兵衛は5月6日の払暁から道明寺付近で徳川軍と戦っており、午前10時ころ伊達政宗軍による鉄砲隊によって討ち死にしたとあります。

5月7日の午後に茶臼山の戦いが起こっているので、こちらの資料が正しいとなると、後藤又兵衛が家康を討ち取ったとするのは不可能です。

「徳川政権に都合の悪い事実を抹消した」がありえるとすると、この5月6日に後藤又兵衛が討ち死にしたという資料は真実ではなく作り話かもしれません。

本当に後藤又兵衛は生きており家康を討ち取っていたかもしれません。

どちらの資料が真実だったのか真相は闇の中です。

また、これは仮説になりますが、茶臼山の本陣を蹴散らしたのは後藤又兵衛ではなく真田幸村隊であり、徳川家康を討ち取ったのも真田隊という説です。

真田隊はその後壊滅しており、真田幸村自身も討ち死にしています。

このことにより「討ち取った武将も、そのあと討ち死にしており、記録を残せなかった(報告できなかった)」のではないでしょうか?

そして、徳川家にとって都合の悪いことは全て抹消されたという可能性も考えられます。

徳川家康が討ち取られたのがバレていたらどうなったのか?

徳川家康は大阪夏の陣が始まるまでに、幕府を開いて10数年かけて徳川政権をじっくりと作っていて、すでに徳川政権に対抗できる勢力はいなくなっていました。

もし、徳川家康が討ち取られた情報が漏れていたら、大阪夏の陣では徳川軍は大混乱となり負けていたかも知れません。

しかし、その後は家康の子、徳川秀忠が徳川軍を束ねることになるので、それに対抗できる勢力はいなかったと考えられます。

豊臣方は遅かれ早かれ滅亡は免れなかったのではないでしょうか。

あとがき

大阪夏の陣の夜空

「大阪夏の陣で徳川家康は討ち取られていた」都市伝説について深堀りしました。

大阪夏の陣で家康が討ち取られたことは公にはなっていないので、この話はあくまで都市伝説です。

しかし、「大阪堺の南宗寺に家康の墓があること」「その南宗寺に資料が残っていること」も事実です。

火のない所に煙は立たないという言葉があります。

信じるか信じないかはあなた次第です。

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