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【都市伝説】本能寺の変の本当の黒幕は?明智光秀は謀られた説

本能寺の変の真実
本能寺の変

本能寺の変は、歴史好きは知っている歴史的大事件です。

しかし、本能寺の変を起こした明智光秀の動機が今現在でも解明されておらず、真相は謎に包まれています。

最近の研究結果で注目を集めているのが、事件の背後で何者かが明智光秀を操り、信長の暗殺を促した『黒幕の存在』説です。

この記事では『本能寺の変の黒幕は誰なのか?』について、最新の研究結果をもとに有力な説を紹介していきます。

目次

本能寺の変とは?

本能寺の跡

1582年6月に京都の本能寺で織田信長が家臣の明智光秀に暗殺された事件です。

明智光秀の兵は13000人いたといわれており、対して信長の兵は150人ほどしかいなかったといわれています。

最も無防備な状態を狙われた織田信長

天正10年(1582年)3月、信長は甲斐(山梨県)へ侵攻し、宿敵だった武田家を滅ぼします。

安土へ帰還した信長でしたが、毛利攻めの最中の部下の羽柴秀吉から応援を要請されます。

信長は、部下の明智光秀に秀吉の援軍の出陣を命じ、自身も秀吉の元に行く準備のため、京都へ向かいました。

このとき、各地で配下の武将と兵は奮闘しており、信長はわずかな兵しか連れていませんでした。

この時に中国地方へ向かったはずの明智光秀が突然、謀反を起こし、信長のいる本能寺に向かいました。

このとき光秀が言った『敵は本能寺にあり』という言葉は有名です。

どうして、光秀は信長を裏切ったのか?

本能寺の変で織田信長を裏切った、明智光秀。

彼はどうして裏切ったのか?
扇動した黒幕はいたのか?
いたとすれば誰であったのか?

本能寺の変の後の光秀の手際が良い行動から、近年では「本能寺の変は、光秀の突発的な判断ではなく、事前に準備されて起こされたのではないか?」という説があります。

いくつかの説と、その『黒幕』について解説したいと思います。

【黒幕】徳川家康説

徳川家康

徳川家康は信長の部下ではなく、同じ大名であり同盟者でした。

徳川家康はのちに天下を治めて江戸時代に入ります。

彼はつねに天下を狙っていたことでしょう。

また、家康は堺の商人たちと親しくしていました。

信長は南蛮貿易を進めていたので、これは堺の商人たちには不利益なことであり、信長は堺の商人たちの反感をかっていた可能性はあります。

この堺の商人たちが家康をそそのかしたというのが、この【黒幕】徳川家康説です。

しかし、事件当時、家康は堺方面におり、事件後に逃げるように浜松に帰還しました。

このことから本能寺の変は家康にとって予期していない事件であり、彼は黒幕というより、被害者であった可能性が高いです。

【黒幕】羽柴秀吉説

羽柴秀吉

一番有力な説が【黒幕】羽柴秀吉説です。

秀吉はもとは農民の家柄であり、数々の戦で手柄を立てながらも、織田家の中では下に扱われていました。

信長には柴田勝家、滝川一益など実力のあった家臣がたくさんいます。

もちろん明智光秀も含まれています。

秀吉は本能寺の変のあと、天下を治めています。

このことから、天下を治める野望はあったと考えられます。

しかし、天下を治めるのはトップの信長、さらにその部下で優秀で家柄の良い武将がたくさんいます。

家柄の良くない秀吉が天下をとるには信長を暗殺するしかないと考えたのかもしれません。

また、実際に秀吉はこののち天下を治めています。

この本能寺の変で一番得をしたのが秀吉なのは誰が聞いても明らかです。

さらに、信長を中国地方へ援軍の要請で呼んだのは秀吉であり、秀吉が呼ばなければ信長は本能寺に行くこともなかったでしょう。

このとき、各武将は全国各地に兵を連れて行っており、信長が兵をたくさん連れていないことも秀吉はわかっていたと考えられます。

もうひとつ、秀吉が黒幕だと思われる決定的な根拠があります。

それは「中国大返し」です。

当時、中国地方の毛利と戦っていた秀吉は本能寺の変が起こると、素早く毛利と和睦し、ありえないスピードで京へ帰りました。

8日間で220㎞を走ったと言われており、何万の兵が全員馬に乗っていたわけではないので、この大軍でなおかつ甲冑や武器や荷物など何十㎏も身に着けてこの距離を徒歩で移動したことは未だにミステリーと言われています。

1日に平均すると約30㎞走り続けたことになります。

これは信長が暗殺されるのを最初から秀吉は知っていて、すでに和睦と帰還の準備をしていたのではないか?と考えることもできます。

秀吉が明智光秀を「山崎の戦い」で討伐したのは、口封じが理由だと考えることができます。

また、謀反を起こしたのは明智光秀であり、自身は信長の仇を討ったというシナリオにするためもあったと考えることもできます。

【黒幕】安国寺恵瓊(毛利家)説

安国寺恵瓊

甲斐の武田が滅んだあと、信長は中国地方の毛利氏に標的を狙います。

毛利とは信長に派遣された羽柴秀吉と攻防を繰り返していました。

しかし、武田が滅んだことにより織田が毛利へ本格的に攻撃してくることを知り、毛利家は存亡の危機に直面していました。

この説は、毛利家の外交僧であった安国寺恵瓊(えけい)が、秀吉や光秀の協力を得て、信長の暗殺を企てたという説です。

のちに秀吉の時代になり、安国寺恵瓊や毛利家は秀吉に優遇を受けています。

秀吉が天下をとれたのが安国寺恵瓊のおかげだとしたら、納得できる話です。

【黒幕】朝廷・公家説

朝廷・公家

信長は安土城内に天皇の住まいである清涼殿を模した御殿を作っていました。

つまり、安土城に天皇を迎えるつもりであったと考えられます。

もし、これが実現すると「朝廷の実権が信長に握られ、公家の地位がないがしろにされる」と公家たちが危機感を覚えた可能性は十分にあります。

光秀は朝廷や公家と親しいので、公家が光秀に信長の暗殺をそそのかしたとした説が、【黒幕】朝廷・公家説です。

実際は、本能寺の変のあと秀吉が天下を治めるのですが、公家たちは五摂家のものしか就くことのできない「関白」の地位を秀吉に与えています。

これは、信長のような勝手な行動を秀吉にはさせないようにとった公家たちの考えであったとも考えられます。

あとがき

本能寺の夜空

今回は本能寺の変の黒幕について考察をまとめました。

個人的には、【黒幕】羽柴秀吉説と【黒幕】朝廷・公家説のどちらかが有力だと思っています。

ただ、光秀の正確な動機についてはまだ決定的な資料がなく、性格にはわかっていません。

今後、新しい資料などが見つかればさらに詳しくわかる日がくるかもしれません。

信じるか信じないかはあなた次第です。

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